マーケティングにおいて、ブランドの認知を広げ、競合との差別化により独自の価値を打ち出すうえで、ブランド戦略が鍵を握ります。
市場の変化とともにステークホルダーのニーズも激変する今、企業はブランド戦略の役割をどのように捉え、実践すれば良いのでしょうか。
日本マーケティング学会2代目会長である“国内のマーケティング第一人者”、田中洋氏に、電通B2Bイニシアティブの遠山若菜、山本将介が伺いました。

PROFILE
中央大学名誉教授
田中洋
中央大学名誉教授。東京大学経済学部非常勤講師(2025年度)。日本マーケティング学会会長、日本消費者行動研究学会会長を歴任。
京都大学博士(経済学)。電通で21年間マーケティングを経験した後、法政大学経営学部教授やコロンビア大学客員研究員などを経て現職。マーケティング論、消費者行動論、広告論、ブランド論などに精通し、国内でブランド戦略を語るうえで欠かせない存在。主著は『ブランド戦略論』(日本マーケティング学会マーケティング本大賞受賞)。

PROFILE
株式会社電通 ストラテジック・プランナー
遠山若菜
電通入社後、戦略プランナーとして、ナショナルクライアントからスタートアップ企業までコミュニケーションプランや、外資企業の日本市場参入のBtoB戦略コンサルティング作業を担当。

PROFILE
株式会社電通 マーケティング・コンサルタント
山本将介
広告制作会社にてプロジェクトマネージャー、IMCプランナーを経て、2016年、電通入社。現在は、課題設定から戦略立案、エグゼキュージョンまで一気通貫したソリューションを提供。
課題や条件に応じて合意形成プロセスをデザインし、セッションメソッドの独自開発も行う。
過去から現在において、広告とブランディングはどう変化しているのか?
左から、田中洋氏・電通 ストラテジック・プランナー 遠山若菜・電通 マーケティング・コンサルタント 山本将介
遠山氏 田中さん、この度はありがとうございます。過去には電通でマーケティングディレクターを経験し、その後も長きにわたって広告業界に携わってきた田中さんですが、これまでの業界の変化をどう見ていますか?
田中氏 広告の手法は、商品やサービスといったブランドの認知拡大や販売促進を目的とした戦略のひとつとして、市場の状況や顧客のニーズに合わせて変わってきました。
1950年代にアメリカで話題になった有名なブランドイメージ広告「Hathawayシャツを着た男」をご存知ですか?シャツブランドが展開したこの広告は、シャツとネクタイをスマートに身に纏い、アイパッチ(眼帯)をつけた紳士のビジュアルが注目を集め、多くの雑誌で取り上げられました。
この広告が大きな成功を収めた背景として、当時は現在に比べ、各ブランドの商品のデザインや品質に大きな差がありませんでした。「白いシャツ」はまさにその代表と言えるかもしれませんね。だからこそ「イメージ」で差別化を図るほかなく、その手段として広告が活用されていたのです。私はこれが基本的に20世紀の広告スタイルを形成してきたひとつの源ではなかったかと考えています。
しかし、「Hathawayシャツを着た男」の広告から70年以上経った今でも、企業がブランド戦略を考える際、想定顧客に対して「広告のイメージだけで良く見せればいい」という20世紀的な発想が根強く残っています。
遠山氏 興味深いお話です。確かに、今でも広告というと「社名を連呼して印象に残す・とにかくアイキャッチなビジュアルで印象付ける」という発想をもつ企業さんも少なくないと思います。品質やデザインが多様化した現代は、本来であればイメージで差をつけるのではなく、ブランドの本質的な価値を訴求するための手法として広告を活用すべきということですね。
田中氏 おっしゃる通りです。また、広告業界では自社ブランドの顧客を絞り込むマーケティング施策の手法として「ターゲティング」という考え方がありますが、お客様を的に見立てて狙うという発想も現代的ではありません。我々が顧客を狙うのではなく、むしろ「僕らを見つけてください」と、顧客から選ばれるようとする姿勢に変わりつつあります。
ブランド戦略で配慮すべき3つのポイント
遠山氏 お話いただいた広告業界の歴史を踏まえて、これからのブランド戦略ではどのような視点が大切になるとお考えですか?
田中氏 大きく「信号化」「理念化」「経験化」という3つの視点がブランドの変化の方向性であると思います。
まず「信号化」についてです。信号化とは、何のレトリックも用いずに「このコーヒーは美味しい」とそのままそのブランドのありようを表示することを意味しています。例えば、処方箋薬にもブランドはありますが、処方箋薬のブランドとはその機能が表示されればそれだけで十分です。ブランドの信号化とは、ブランドが処方箋薬のようにその機能だけを単純に意味する存在になることです。
信号化の対極はメタファー化です。先ほど紹介した「Hathawayシャツを着た男」は信号化以前のメタファーを用いたブランド広告の先駆的な例です。この場合、アイパッチをつけた紳士がHathawayシャツのメタファー(暗喩)になりました。20世紀の広告界を席巻したのはブランドのメタファーとして有名タレントを起用して大々的にCMを打つような手法でした。メタファーとは直接関係ない事物同士を結び付けるというレトリックのことで、「A子さんは花だ」というのは「A子」と「花」という本来何の関係もない存在同士を結び付ける手法です。「信号化」ということで言いたいのは、20世紀的なメタファーとしてのブランドに替わって信号としてのブランドが台頭するということです。
信号化の事例として、Yakult(ヤクルト)1000を挙げることができます。Yakult(ヤクルト)1000という乳酸菌飲料は、「生きて腸内まで到達する『乳酸菌 シロタ株』がヤクルト史上最高密度の1本に1000億個入った、乳製品乳酸菌飲料」※ということで、ストレス緩和や睡眠の質向上といった機能があるとされています。この場合、Yakult(ヤクルト)1000=熟睡というご利益が伝達されれば十分なのであってメタファーは必要ないと言えます。
続いて「理念化」とは、ブランドの背景にある世界観、哲学を理念化し、顧客と共有するということです。「オーガニックワイン」はその例です。有機栽培で作られたワインと、化学肥料や化学農薬などを使用して作られたワイン、それぞれを飲み比べたとき、味だけで違いに気付ける人はほとんどいません。しかし「環境への配慮」や「食の安心」といった考え方に共感する人は、多少値が張ってもオーガニックワインを選ぶのです。
また、ライフスタイルブランド「BOTANIST(ボタニスト)」は、植物がもつ豊かさと科学の最適なバランスを追求したヘアケア・スキンケア・ボディーケアアイテムで、“植物とともに暮らすこと”を提案して大ヒットしました。これも理念化の成功例と言えるでしょう。
ユニリーバから出ているDoveもまた理念化ブランドの例です。「本物の美しさ」「あなたらしさ」を重視した理念を掲げて、顔にシミがあるモデルを用いた訴求を行っています。ブランドの理念化においては、顧客が実際にその理念を体験・実感でいる必要はありません。
最後に「経験化」についてです。生活や仕事のデジタル化・オンライン化が招来した事態とは、顧客は自分あるいは信頼できる他者が経験したことしか信じない、ということです。ChatGPTがすばらしい、ということをいくら広告で訴求しても有効とは思えません。ChatGPTの有用さを実感するためには、ユーザーが自身で実感しなければダメなのです。もちろん経験はデジタル時代以前から重要でした。
消費者にとって「前にこのブランドの商品を使ってとても良かった」という過去の経験は、次に商品を選ぶときの重要な手がかりになります。デジタル化はこうしたブランド経験の重要性を否応なく高めました。SNSがマーケティングで重要になったのはこうしたブランドの経験化があるためとも言えます。
ブランド戦略における3つの好事例
山本氏 近年のブランド戦略のなかで田中さんが注目した事例があれば教えていただきたいです。
田中氏 3つの事例をご紹介します。
1つ目は、キリンが17年ぶりに発売したビールの新ブランド「晴れ風」です。爽やかな青色のパッケージが印象的ですが、味わいも、普段ビールを飲まない人やビールの苦味が苦手な人でも楽しめることをコンセプトに、開発には5年目の若手社員が抜擢されたそうです。「力強い苦味」「辛口」「飲みごたえ」といったビール本来の特徴をあえて抑えたブランド戦略が若者に刺さり、販売数は500万ケースを突破して大ヒットを記録しました。加えて、売上の一部を使い、日本の風物詩の保全・継承を継続的に支援する「晴れ風ACTION」と言う取り組みも、社会貢献的なアプローチとして現代にフィットしていますね。
2つ目は日立製作所の「社会イノベーション」というコンセプトです。同社のホームページには、コンセプトに関するメッセージが掲載されています。
メッセージの意味は、ハードウェアを作って納めるだけでなく、それを稼働させるためのシステムも一緒に設計し、インフラ全体を整備することで社会課題の解決を担うということ。日立製作所だからこそなし得る事業領域を象徴的に言語化したことで、認知を広げ、独自の立ち位置を獲得したケースです。
最後に、1885年からの歴史をもつ企業、株式会社フジクラをご存知でしょうか?情報通信やエネルギー、エレクトロニクス、自動車電装など、BtoB向けのさまざまな事業を展開していますが、そのなかでも近年の生成AI市場の拡大を背景に、データセンターの建設需要が世界的に拡大するなか、電線や光ケーブル、光コネクターの製造で業績を上げています。一般的に広く社名が認知されているわけではありませんが、BtoBの場合、必ずしも一般の人々にその存在を知られている必要はありません。KOL(Key Opinion Leader)など、その市場で必要な人々に知られていれば当面それで十分なのです。フジクラはグローバルな事業展開を戦略的に進めるために、世界統一のブランドロゴを定め、着実に海外でのブランドの認知獲得に成功した好事例です。
これからのマーケティング研究に期待すること
田中氏 マーケティングについて、最近の研究では語られることが少なくなってきました。80年代の経営学のなかで戦略論が重視されるようになってから、マーケティング論は戦略論に包摂され、マーケティングという言葉そのものを意識することはなくなった印象です。
しかし、そうした流れのなかで経営学における戦略論には包摂されず、本来のマーケティング論に含まれていた考えとして置き去りにされてしまったのが、「エクスチェンジ(交換)」という発想です。「エクスチェンジ(交換)」とは、我々売り手側が市場に対して一方的に仕掛けるものではなく、売り手と買い手の交換という相互作用であることを前提とした考え方です。マーケティング学者は意外とこの視点について深く考えてきませんでした。その代わりに、顧客と長期的な関係を構築し、顧客の生涯価値を最大化するマーケティング手法「リレーションシップ」が重視されています。
しかし、リレーションシップの手法には交換=エクスチェンジの考え方を理解しないと成立しません。今こそエクスチェンジに立ち返り、改めてマーケティングを考察する必要があると思います。

PROFILE
B2B Compass編集部