B2B Compass
この連載では海外マーケティングを進化させる「トランスクリエーション」という近年欧米で注目されている手法を解説します。
トランスクリエーションは「トランスレーション(翻訳)」と「クリエーション(創作)」を組み合わせた言葉で、1960年代米国の広告業界で誕生しました。海外の文化的背景や市場の違いなどを踏まえてより効果的な言語表現を生み出すコピーライティング。これが最初の定義です。
広告、マーケティング、ブランディングに高い効果を発揮するため、ビジネスの現場と非常に相性が良い翻訳手法といえます。
・外国で人の心を掴むセールスコピー/キャッチコピー
・海外向けに発信する企業のビジョン/ミッション/パーパス
・グローバルで販売する製品やサービスのネーミング
・そのほか通常の翻訳では伝えきれないニュアンスが必要なライティング全般
トランスクリエーションという言葉を初めて目にする方が多いと思いますので、早速その具体例からご紹介します。トランスクリエーションはこれまでB2Bに比べてB2Cでの事例が豊富ですので、B2Cの有名な例からご覧ください。
INDEX
福岡県出身のあるレストラン経営者はニューヨークの博多料理店で明太子を提供していました。当初、明太子を英語で「Cod roe(タラの卵)」と表記していたのですが、ニューヨークのお客さんからは気持ち悪がられ、なかなか食べてもらえなかったといいます。
しかし、英語の表記を「Hakata Spicy Caviar(博多スパイシーキャビア)」に変えた途端、爆発的に明太子が売れたのです。ちなみに、キャビアという名称はチョウザメの卵巣だけでなく魚卵の総称として使われる場合もあるので、嘘をついているわけではないところも秀逸です。
明太子とは何か?について直訳すると「Cod roe(タラの卵)」ですが、富裕層の多いニューヨークで人の心を掴むためには想像力を働かせて「Hakata Spicy Caviar(博多スパイシーキャビア)」と呼ぶほうがターゲットの購買意欲を掻き立てます。ニューヨークの生活者の心に「知らなかったけど食べてみたい」という、これまでになかった親しみや愛着(新しい共感)が生まれたと言えるでしょう。これは非常にわかりやすいトランスクリエーションの代表例です。
日本のビジネスを海外展開する、海外のビジネスを日本展開する、どちらにも翻訳は欠かせません。しかし、国際的なビジネスを推進する上で、「正しい翻訳」だけでは不十分だと感じている方は多いのではないでしょうか?
「ホワイトペーパーを英語に翻訳したけど、現地の取引先の心に響いていない」というのはよくある話です。
先ほどの明太子の事例では、「Cod roe」は「正しい翻訳」ではありますがビジネスに貢献せず、「Hakata Spicy Caviar」という「効果のある翻訳」がビジネスの推進力になりました。そこで大切なのは、「効果」を生み出すロジックは国や地域によって異なるということです。日本でも、事業展開するエリアが東京と沖縄とではマーケティングを変える必要があるように、各国各地域特有の事情に合わせることが理想です。
例えば、B2Bの営業担当者の立場からすると、自社製品やサービスの魅力を取引先に効果的に伝えることは重要な仕事ですが、それを伝える国や地域が異なれば「何を魅力的だと感じるのか」が異なる可能性が大いにあると念頭に置く必要があります。自国内での発信内容を「正しく翻訳」しただけでは、販売促進やブランド構築などの目的を達成できる見込みは低くなるのです。
また、「正しい翻訳では不十分である」という課題を体感するためには、海外在住経験や、海外事業でコミュニケーションがうまくいかなかったなどの実体験も必要です。そのため、社内や部門内に海外経験者が少ない場合はそれが解決すべき課題であるという共通認識になりづらく、まず自社のその状態が課題である、なんていうこともよくあります。
ほかにも、こんな課題を抱えていないでしょうか?
・国内のマーケティングに比べ、海外におけるマーケティングの戦略や方針がない
・社員たちはほとんど海外経験がなく、誰も海外戦略の具体策を提案できない
・国内の知見をそのまま海外でも活かせばいいと安易に思っている社員が多い
これらの課題を解決に導くために、トランスクリエーションは非常に有効です。言葉の翻訳だけでなく、マーケティング全般において、トランスクリエーションの考え方(トランスクリエーション思考)が役立つからです。しかし、トランスクリエーションは日本企業にまだまだ知られておらず、適切ではない海外マーケティングを目にして残念に思うことがたくさんあります。
一般的な翻訳・トランスレーションを「直訳」「意訳」だとすると、トランスクリエーションは「創訳(創造的翻訳)」です。トランスクリエーションは、通常の翻訳を超えて、特定の市場や文化に合わせてより効果的で魅力的なメッセージに再構築します。
また、海外事業を成功へ導くためには、言葉を翻訳するだけでなく、製品やサービスの内容自体をターゲットとなる国や地域に合わせて変えて調整していくことも重要です。その場合も、トランスクリエーションは効果的な力を発揮します。
トランスクリエーションが、通常のトランスレーションに比べて「もっと伝わる」のは、次の特徴を持っているからです。
一つずつ簡単に説明していきましょう。
異なる国や地域に製品やサービスを展開する際、その土地に根差した特有の文化を理解することは大前提です。歴史、習慣、宗教などの違いを考慮に入れずに現地での適切なビジネスは行えません。しかしながら、自国で行なっている営業活動をそのまま他国でも実施して失敗するケースは後を絶ちません。特に歴史や宗教、近年では紛争やLGBTQのあり方などに関する内容はかなり慎重にケアしなければ大きなリスクになりかねないので要注意です。
展開する国や地域の社会的な潮流、取引のターゲットとなる企業で働く人たちの嗜好性やライフスタイルの傾向などを把握しなければ効果的な戦略はつくれません。自国のマーケティングとは異なる、グローバルでのマーケティングの視点が必要です。現地への「最適化」を行うプロセスといえます。さらに、市場の動向は常に変わり続けるので、変化の兆しを捉えて新たな機会を創出することができれば非常に優れたマーケティングです。
クリエイティブディレクションは、その名の通り「ディレクション(指針)」を定める仕事です。マーケティングに則った上で、より売り上げを伸ばすため、より認知を高めるため、よりブランドを好きになってもらうためのクリエイティブな指針を考案します。現地の「市場」だけでなく「感情」にも訴えかける効果的な指針を見つけ出すためには、製品やサービスに関するあらゆる情報をインプットし、人の心や社会の動向を深く洞察し、時にはネット検索や調査では出てこない潜在的な需要を直感的に掴み取ることさえ必要です。そのため、クリエイティブディレクターはそれなりの経験や能力が求められます。
定められた指針を頼りに、具体的にコピーライティングを行います。そこで目指すのは「新しい共感の創造」です。上記の明太子の事例では、「Hakata Spicy Caviar」というネーミングによって、ニューヨーカーたちの心にこれまでになかった親しみや愛着(新しい共感)が生まれたと書きました。海外ビジネスの成否を決める重要なポイントは「現地でその製品やサービスに共感してもらえるかどうか」です。営業活動もマーケティング戦略もDXで最適化される時代ですが、ターゲットが共感するポイントを洞察し、共感するように的確に言語化する力はAIに比べて人間のクリエイティビティに高い優位性があります。トランスクリエーションが機械翻訳や大規模言語モデルによる生成AIではできないことの理由の一つです。
ここで筆者の会社(株式会社morph transcreation)が米国に本社を置く大手IT企業と共同で取り組んだ事例をご紹介します。
わかりにくいカタカナ語を、わかりやすい和製語にしてみようという試験的なプロジェクト。海外マーケティング研究の一環ですが、B2Bビジネスにも役立つ考え方です。
日本では「カタカナ語」で社会に流通している単語が数多くあります。サステナビリティ、エンゲージメント、バーチャル、ベンチャー、コンセンサス、コアコンピタンスなどなど。「それらを日本語にするべき」とカタカナ語を毛嫌いする向きもあるかと思いますが、そもそもカタカナの歴史は日本において7世紀の飛鳥時代にまで遡りますし、カタカナ語のままで共通認識がすでに出来上がっていて社会的に通用しやすい単語もたくさんあります。
ただ、とても大事な意味なのにカタカナ語のままでいつまでも理解が定着しない単語があることも事実。それをわかりやすい単語に変換することは発信者にも受信者にも価値のある「効果のある翻訳」だと言えるでしょう。
B2Bビジネスにおいても、なんとなく使っているカタカナ語を「よりわかりやすく言い換える」ことで商談がスムーズに進んだり他社に対して優位な立場で業務を進められることが期待できます。
このプロジェクトで取り上げたのは「インクルージョン」という単語です。
「ダイバーシティ」は「多様性」という和製語で一般的に広く理解されています。そして昨今「ダイバーシティ」とともに注目を集めているのが「インクルージョン」ですが、「インクルージョン」に該当する一般的でわかりやすい和製語はまだ存在せず、かといって「インクルージョン」のままではどうもピンときません。
ここでは詳細は割愛しますが、さまざまに分析した結果、英語圏と日本では文化や習慣の違いによって「インクルージョン」という言葉の果たすべき役割が微妙に異なり、「ただ翻訳するのではなく、日本ならではのインクルージョンの意味を明らかにする必要がある」ということに気がつきました。
そこで試験的に考案したのが「互寛容」という和製語です。日本では「お互い様」という言葉が広く使われ、お互いの立場や考えに寛容であることが尊ばれます。理解が難しい「インクルージョン」という言葉を「日本ならではの価値のある言葉として再創造する」という試みでした。
このように、たった一つのカタカナ語でも、トランスクリエーションを適切に行うことで、B2Bにおいても取引先との相互理解をより深め、さらに自社や製品の価値を高められるチャンスにもなるのです。
海外事業を展開している企業の方は「ローカライゼーション」という言葉をご存知かもしれません。ローカライゼーションも、海外事業を推進する上で、文化的な壁を乗り越えるために言葉やコンテンツを調整します。トランスクリエーションとローカライゼーションは一見すると似ている部分も多いので、その共通点と相違点をわかりやすく解説します。
ターゲットとなる地域に合わせて、言語だけでなく製品やサービスを最適化します。例えば、企業の海外向けのWEBサイトでは、原文の直訳ではなく異国のターゲット向けに内容を作り変えたり、現地での流行や宗教的背景などを考慮しながらビジュアル要素を変更する必要も出てきます。異なる文化の違いを深く理解し、適切なマーケティングに基づいて、海外事業の展開を効果的に促すという点ではトランスクリエーションのプロセスと同じです。
トランスクリエーションも異文化理解に基づき、マーケティング戦略を構築しますが、さらに「クリエイティブディレクション」を行い「新しい共感」を生み出す、ということが大きな違いです。ローカライゼーションが「価値の最適化」を導くものだとすれば、トランスクリエーションは「価値の最大化」を目指すと言えるでしょう。
DXによるビジネスの最適化は不可逆的に進みます。それは極めて便利で効率が良いため活用を進めながらも、提供する価値の「最適化」に留まってしまうのでは競争優位性を勝ち取ることはできません。競争優位となる価値の「最大化」のために、創造的なアイデアやコンセプトなどを生み出すことのできる人自身がこれからますます高付加価値な存在になっていきます。
人間ならではの創造性に基づくトランスクリエーションは製品やサービスの価値の最大化に貢献します。AIが飛躍的に発達し続ける社会だからこそ、トランスクリエーションは海外ビジネスを推進する貴重なフォース(力)となるのです。
小塚泰彦
博報堂を経て渡英。Royal College of Art イノベーション・デザイン・エンジニアリング学科MPhil.を中退して英国人と共同で株式会社 morph transcreationを創業。米国トップ企業をはじめ数多くの大手企業にトランスクリエーションを提供。また、トランスクリエーションの概念を独自に拡張し、翻訳やコピーライティングだけでなく、文化資本経営を推進する新たな方法として構想している。自身も能・茶道・和歌を稽古し日本の古典文化に傾倒。電通B2Bイニシアティブのビジネスパートナー。