初めまして!ニューヨークでB2Bマーケティング会社を経営しているママ社長のようこです!
ニューヨークのママ社長ブログシリーズでは、今後皆さんにニューヨークからニューヨーク流のキャリアやビジネス、育児などのトピックについて配信して行きます。
今回の第一本目のブログは私のプロフィールと紹介も含めて、私のニューヨークストーリーを皆さんにお届けします。
14歳に単身渡米してからニューヨークへ辿り着いた経由と、現在のB2B支援会社までに至る道のりを綴りました。ニューヨーク、もしくは海外で働いたり、ビジネスのチャレンジをしてみたい方、是非読んでみてください!
14歳の夏の終わり、アメリカ・バージニア州行きの片道航空券を片手に両親と成田空港の出発ロビーで別れのハグをした。父の涙目と真っ赤になった顔が印象的だった。私も号泣した顔を隠すように搭乗ゲートに向かった。あまり泣きすぎると両親が心配するので、泣きすぎないようにした。その後、顔が見えなくなったとたんに一人で号泣し始めたが、ゲートに着くまでの途中、そんな姿が目立ったのか、米系航空会社のフライトアテンダントに「そんなに泣いてどうしたの?大丈夫?」と優しく声をかけられた。飛行機にやっと搭乗して乗り込んだ窓側の席。機体の翼とその下に広がる成田空港を見ながら家族との空港での別れを思い出し、一人で声を上げてまた号泣した。この時、「絶対に自分は夢を達成させる」と強く自分の心に誓ったのだった。大きなスーツケース2つと大きな夢をもち、こうやって14歳の私は単身で語学留学をしにアメリカのバージニア州で高校へ、そしてワシントンDCでは大学に進んだのだった。
その後卒業して就職し、大企業で働いて貯めた貯金で再び同じくスーツケース一つと、14歳から見てきたあの大きな夢を詰み込んで、今度はニューヨークという街に私はいた。世界中が集まり、多くの映画の舞台として知られるニューヨークという街。華やかでキラキラと輝いている宝石のような一面をもつ街は、その華やかさと憧れに惹きつけられて来る人たちは2年もしないうちにニューヨークを後にする人も多く、まるで攻略不能なラスボス、もしくはサバイバルゲームのような一面を持つ街でもある。それでも、3.11のあの大震災を体験した当時、自分は何が本当にしたいのか、どんな人間になりたいのか、自分らしく一番輝ける事とは何かを考え、見つめ直した結果、日本のモルガン・スタンレーに新卒で入ってから3年のタイミングで「大企業でのキャリアをやめるなんてもったいない」という周囲の反対の声を押し切り、キャリアチェンジと自分自身のチャレンジため、そして14歳の心に誓った夢を掴みにニューヨークという街を選び、再渡米したのだった。
そして始まったニューヨーク生活。はじめは知り合いのアパートのソファーやリビングなどで居候しながらのスタートで、ホームレス的な生活が続いた。貯金はあったが、まずはキャリアチェンジ用の学費、それから投資、その後に必要最低限のものにだけしか使わないようにしていた。ニューヨークのアパートは需要が高く、すぐなくなるのでアパート見学で即決しなければすぐになくなるのが当たり前。アパートの紹介費用もなかなか高いので、慎重且つ慎重すぎずにアパート探しをした。
そしてやっと見つかった一番最初のアパートはブロンクス区にある割安のシェアアパートの一室。オンラインの日系掲示板から見つけたので、高い紹介費は払わずにアパートを見つける事ができたが、まもなく巨大なドブネズミとゴキブリが出る部屋での生活が始まったのだった。
キッチンの棚の上においた食パンは次の日、ドブネズミにたべられて半分なくなるのは当たり前。隣のキッチンではネズミの物音で起き上がるのも当たり前。部屋にドブネズミが入ってくるんじゃないかとびくびくしながらベッドでうずくまりながら寝た夜も多かった。部屋に帰って来たらゴキブリの死骸が5体ほど部屋のあちらこちらで見つかるのは日常茶飯事。帰路の満員電車のなか、何もしてないのにいきなり喧嘩を売られることもあったり、特に住んでいたブロンクス区の南部は性犯罪者の密度も高いところだったが、帰宅の際、後ろで誰かにつけられそうになって怖い思いをしたこともあった。これも立派なニューヨーカーになるための洗礼。そんなふうに思いながらニューヨーク生活をスタートしたのだった。
ブロンクス区にある一番最初に滞在したアパートビルの外観
このような経験を経て、憧れだったニューヨークを後にする人は少なくない。私はこういう経験が逆に新鮮で、辛い・怖い・悲しいなどと思うよりも、自分の成長を実感できる楽しさと、ニューヨークの真の醍醐味を味わう事の楽しさを感じながら毎日の生活と自分の成長に満足を感じていた。そしてニューヨーク生活1年目はキャリアチェンジのために学校へ通い、とりあえず学生ビザ1年とインターンシップビザ1年で併せて2年間の滞在期間の確保をした。
昼間は無償インターンシップで実務を積み、夜は学校、その後月5万円程度の手取りの夜のアルバイト生活の繰り返しの日々を送った。つい最近まで恵比寿ガーデンプレイスにある綺麗な外資系大手金融企業のオフィスで働き、オフィス近くにある恵比寿のアパートで優雅な生活を過ごしていたのとは真逆のライフスタイルだった。その後、半年から1年後にやっと無償インターンから有償インターンへ昇格し、その後正規社員としてニューヨークの日系広告代理店での就労ビザのH1Bビザ(※特殊技能を有する職業に従事する人のためのビザ)を獲得し、念願のニューヨークでキャリアチェンジに成功したのだった。
ニューヨークは世界中の人が集まる巨大都市。だからこそ、ニューヨークにはチャンスはいくらでもあるし、周りは新しく斬新な事だらけに満ち溢れている。と同時に、世界中が集まるからこそさまざまなところでカオスになりがちで、日本でよく言う「常識」という概念がない事も多い。嫌な事にフォーカスするのも自分自身、そして嫌な事があってもいい事にフォーカスするのも自分自身。ニューヨークというなんでも有りな街は、まさにやりたい分だけ自分次第で道を切り開けるいける街。最終的に自己責任が問われる街なのだ。一歩間違えると生と死に関わるくらい危険な部分も多いが、私はこれらのような経験から、ニューヨークという街での生活やビジネスに必要な「ストリート・スマート」というスキルを着実に身につけて行ったのかもしれない。
ニューヨークでのビジネスは論理やブックスマートよりも行動・実践派のストリートスマートさが重要になってくる。この街で成功するためにはどんな学歴、理屈や教科書よりも、行動力と実践力でチャンスを切り開く力、コネクション力、さまざまな問題に対する洞察力や解決力、人脈の作り方、それからビジネスやお金の作り方などのスキルが問われる。
ニューヨークの会社(特にスタートアップ系の企業など)では「make it happen(メイクイット・ハプン)」というフレーズをよく耳にするが、訳すと「とりあえずどうにかしなさい、なんとかして結果を出しなさい、目標達成させなさい」という意味だ。ありとあらゆる手法やリソースを使って、とりあえず実践、行動し、達成させると言う意味でよく使われる。ニューヨークと言う街で成功を切り開くには、臨機応変にさまざまなシーンの問題解決力がとても大切になってくるのだ。
例えば、前職の日系代理店で働いていた時、会社のキャッシュフロー設計のために現地の米系代理店A社と自社が特に何もしなくてもキャッシュフローができるように提携を成功した。その米系代理店A社との出会いは、有料セミナーだったのだが、会社の経費ではなく自費でセミナーに参加した。そうすると他人事ではなく自分がオーナーシップを持ち責任持って取り込めるからだ。セミナー終了後、A社の社長にアプローチし、ビジネス商談を持ち込み、幾度となくミーティングを重ね、当時働いていた日系代理店との業提携成立までに至った。
正規社員として働き始めてから2年、日系企業がニューヨーク進出時に落とし穴的なものがあることに気づき、その他いろんな課題を目の前にしているうちに、これら問題解決をするために現地の市場に合った、現地の人による高効率で費用対効果が高いマーケティング戦略を率いるマーケティング代理店を立ち上げた。そして私がちょうど独立したタイミングだった。A社から、ぜひニューヨークオフィスをリードしてもらいたいとお話をいただき、私の会社はやり続けて良い事、そしてグリーンカードのスポンサーになってくれるという事などを条件に、A社のニューヨークオフィスの取締役としてチームに加わったのだった。
その後も、ストリートスマート力を武器に、ニューヨークオフィスは拡大し、0名だったオフィスは6ー7名まで増え、ニューヨークで委託したい広告代理店トップ20などと媒体に選ばれたり、受賞をしたりなどして、顧客も順調に増やしていった結果、A社の社長が別のビジネスに専念したいとの事で売却を決意。その後、ニューヨークビジネスの拡大もきっかけに億単位の買収へと至ったのだった。
ただ単にブックスマートにセミナーに参加しただけだったら、この様な人脈やビジネスチャンスを掴んでいなかっただろう。受け身ではなく、常に自分からアクションを起こし、新しい価値を創造していく力とストリートスマートさ、これらはまさにニューヨークビジネスの成功に重要なスキルとなるのだ。
ニューヨークのパートナーシップ提携企業との商談時より
ニューヨークへ来てから12年。キャリアチェンジ、起業、結婚、出産、育児、を経て複数の事業と子育てに奮闘する毎日。よく聞かれるのは、「ワークライフバランス」だが、私はキャリアとライフのバランスは存在しないものだと考えている。私をはじめとするニューヨークの多くの働くママたちは、バランスを取ろうとするよりも、逆に助けを求めて子育てやキャリアでサポートしてくれる理解よきチームを作り、より現実的な仕組みを作りを仕事のうちの一つとして考えている。
私はこれを「ワークライフサポート」と呼んでいるが、どうやってワークライフバランスを達成するか?ではなく、どうやってワークライフサポートを、そしてだれと作るか?という疑問に対する対策と解決策を探るようにしている。
ワークライフサポートの場合は基本、子育ても仕事も、他の人に任せれるものは任せてしまい、周りのサポートや手助けに頼るという手段を考える。本当に自分じゃないといけない事を最小限にしたり、仕事ではチームや取引先、家庭ではベビーシッター、夫や両親、義理姉妹、義理家族などにどんどんヘルプを頼み、任せられるところは手助けをお願いし、自分ではないと本当にできない事だけのために時間を作り、使うようにしている。
いままでのワークライフバランス的な考え方だと「子育て=ママの仕事」で、お母さんが一人で全てこなすのが前提でのバランスというイメージがあり、違和感を感じる部分がある。アメリカでは「It takes a village (イットテイクス・アビレッジ)」という言い方があり、「一人の子供を育てるには村のサポートが必要だ」という意味となるが、子育てにはお母さんだけではなく、家族やその周りの人を含めた周囲の多くの人のヘルプが必要になるのが事実だ。
ありがたい事に、私の夫は子育ても家事もみんなの仕事という考え方を持っているため、夫が子育てや家事などを家庭内で率先して手厚いサポートを日々してくれている。そうやって見えないところで夫や家族、託児所や学校等を含めた周囲の多くの人たちからのサポートを受けているからこそ、私がこうして今ママ社長としてやっていけるのが事実である。
14歳の時見た大きな夢、それは一人で掴み取るものではなかった。あの飛行機の窓際の席で泣いていた自分に、今ならきっとそう言うだろう。多くの人のサポートがあるからこそ、夢に辿り着けるのだと。そして今後も引き続き、仕事とパーソナル両方で作っていく仲間やチーム、そして家族や周りの多くの人々全てが幸せに、そして豊になるように一緒にアメリカンドリームを実現させたい心より強く願っている。
一部チームメンバーたちと